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I Remember Berklee ①

Departure(出発)

1997年8月、私は29歳になっていた。9月からアメリカに行くことにした。と言ったら、母親は猛烈に反対した。当然の反応なので、とにかく出発の日になったらいなくなるから・・、と押し切った。期間はアメリカの大学の2学期分の、9月から次の年の5月まで、その後はすぐ帰国し仕事に戻ると説明した。音楽教室は休職し、会社は辞めるので、帰国したら就職活動をすると言うと、また仕事を辞めるのかと言った。これも予想していた反応なので、「もう決めたことだ」と言い返した。ひとり取り残される母親は自らの生活の心配をしていた。そして、一文無しのわが娘がどうやってアメリカなんぞに留学することのなるのか不思議がっていた。奨学金をとったと言ったら、それは後々返済しなければいけないのではないかと言う。アンタはだまされている、と・・・。私は日本の奨学金制度とは違うということも説明した。大学からの書類も見せたが、英語なので母には何がなんだかわからず説得の材料にはならなかったが・・。そして私が日本を留守にする間の母の生活費は貯めておいたから、家賃だけ忘れず大家に払いに行くようにと言った。光熱費はなどは私の銀行口座から引き落としになり、食費の分もあるので、あとは母自身もパート勤めをしているから生活できるはずだ、と。母は反対のままだった。たまに母と私のところに来る父親にも一応説明した。父にはよく理解できないことだっただろうし反対する資格はない、と思っただろうから、特に反応はなかった。今こうして当時のことを思い出しながら文章にしているが、記憶は不確かである。決心してから、出発まで、母とは言い争いが絶えなかったかもしれない・・。そう、これだけははっきり覚えている。出発の2日前に会社を辞め、出発の当日は宇都宮駅まで母の運転で送ってもらった。母は「いってらっしゃい」などとは言わなかった。私と目を合わせることなく、「じゃあね」と言った。

実は出発前は行きたくない気持ちになっていた。あまりに母に反対されて気持ちが疲れたのだろうか。出発前に労力を使いすぎて気が抜けたのだろうか。将来への不安もあった。新しい世界への期待でうきうきして日本を発とうとしているわけではなかった。しかし母と「じゃあね」と別れてから、すぐ成田行きの「マロニエ号」が来た。マロニエ号に乗ると、2日前に辞めた会社の前を通って高速へと向かった。私以外の皆はいつもと同じように仕事をしているだろう。私は無職になってしまった。貧乏なのに母親を捨てて外国に行こうとしているのだ。罪悪感のようなものも覚え、成田に着くまでは、バスの中でずっと泣いていた。

今、これを書いている手元には当時のことを細かく書いたワープロ打ちの文書がある。帰国後、母が「どんな生活をしていたのか文章にしておきな」と言ったのだ。帰国後も、母は留学に反対した気持ちのままのようであった。10年以上たった今でさえ、そのような気持ちのままなのではないかと思ったりもする。テレビで留学生が殺された、などというニュースが流れるたびに「アンタはよく何もなく帰ってきた」と何度も言う。

ワープロ打ちの文章は留学してからのほんの1か月くらいの出来事を書いたものだが、A4感熱紙50枚にまとめてある。帰国して3月めに就職したので、それ以降は日々の生活の忙しさで書けなくなり、そこまでとなっているがこれを手がかりに当時のことを書こうと思う。

私はまったく一人でボストンまで行くわけではなく、成田で浜野さんという女性と待ち合わせてボストンに行く予定になっていた。マリさんが海外に行くのはまったく初めてという私の身を案じて、浜野さんと一緒に行くことを提案してくれた。浜野さんはルイスに英語を習っており、バークリーではなく、ボストンからさらに北のニューハンプシャー州のホワイトパインカレッジというところに留学することになっていた。そんなわけで私たちは本日成田を飛び立ちサンフランシスコで乗り換え、ボストンに到着後、空港近くのホテルに一泊し、翌朝浜野さんは学校からの迎えの車でホワイトパインへ、そして私はタクシーでバークリーへ行く。という段取りになっていた。私が乗ったマロニエ号は予定よりかなり早く成田に着き、私は浜野さんとの待ち合わせ場所のユナイテッド航空のカウンター前にむかった。浜野さんがマリさんから私の分の航空券を預かっているはずなのでここで会えないと大変であるが、しばらくすると人ごみの中から浜野さんが現れた。大きなリュックを背負い、両手に荷物を持ち、その重さのせいか少しよろよろしている。「こんにちは~。会えてよかったぁ・・。なんかすごく混んでるし、心配しちゃった。」「ホント、混んでますね~、きっと9月前だから移動する方が多いんじゃないでしょうかねぇ・・。」実は私たちはまだ2,3回しか会ったことがないのだ。だが、長旅を共にするということを考えるとやはり何か縁のようなものがあるのではないかと思い、学校のこと、仕事のこと、英会話のこと、これからのことをうだうだと話しながら、チェックインの順番を待った。今でこそ慣れたが、この時は飛行機に乗って海外に行く際のすべての手続きが初めての経験だったため手元の文書には、出国手続き、手荷物の預け、金属探知機による検査に至るまでどういう気持ちで臨んだかが事細かに書いてある。飛行機に搭乗してからも、食事の注文、機内の乗務員の様子、サンフランシスコでの入国審査、ここでは通常の旅行とは違って、私にしては大金の日本円にして120万円のお金を持っていたため、とても緊張しながら審査官に申告し、自分で持参した5色のボールペンをカウンターに忘れてきた。などというようなことも書いてある。

当時のアルバムを見てみた。このときの私はカメラなど持っておらず、日々の生活に慣れるのに精一杯で、写真を撮ろうなどという気にはなれなかった。かろうじてスーツケースに使い捨てのカメラを忍ばせてはいったが、今、手元にある写真はほんの数枚である。どの写真を見ても私の表情はどこか不安げで、気持ちが定まっていない様子で、どれもいい顔をしていない。写真はいきなり寮の部屋の様子を撮影したものから始まっている。次回から紹介していくつもりだ。


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