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残高の証明

かつて「人間の証明」「野生の証明」などの映画やテレビドラマの番組があったが、私の場合は「残高の証明」である。TOEFLでは思ったほど苦労せず目標の点数に達したが、ある程度の金額を貯めそれを示さなくてはいけない、ということは一連の留学準備の過程の中でもっとも困難なことであった。この時私は母と2人で暮らしていた。私が今の言葉で言えばブチ切れて父を追い出したため、父親はどこかをさまよう生活だったと思うが、結局伯母のところに身を寄せているようだった。しかしいきなりばらばらになった家族ゆえ、後から何かと用事ができる。そんなわけで父も時々私と母の住む「ナメクジ屋敷」に来ることがあった。「追突事故を起こして、相手から電話があるから」と言って電話を受けるために来た時は、私は「一文無しになったうえに事故!!どうしてこんなに嫌なことばかり続くのだろう」と頭にきて、キーキーと父をなじった。母も「わけわかんないうちに事故った・・」と言ってお金の無い中やっと買った軽自動車を廃車にする羽目になったりと、この頃は皆、精神状態がおかしかったのでと思う。父はだんだん身なりもおかしくなり、伸びきった白髪と無精ひげだらけのいでたちで家に来た。その姿を見るたび私は情けなくなった。かつての父は月に一度きちん行きつけの床屋に行って散髪し、毎朝ひげもきちんと剃り・・という典型的なお父さん風だったのに、この頃はホームレス風に成り下がっていた。陶芸家や書家に見えなくも無かったが、事実、乞食の親父である。現在はすっかり元の姿に戻ったが、当時をなんとか振り返ることのできる今、あのときの印象的な父の姿を写真にとっておけばよかった、と思う。

27才の時に、マリさんに出会い、わけがわからぬうちに奨学金をとり、準備期間のリミットは3年間だ~っ!と思って、昼間は会社に行き、夜クラブ(今どきの「クラブ」ではない)でピアノを弾き、休日はヤマハでピアノを教え、クレストフォーでも演奏し、そんなことをしているうちになんとかお金も貯まってきた。銀行で、「私には大学に通えるだけのお金があります」ということを示す、「残高証明」を作ってもらい、TOEFLの結果や、願書と一緒にアメリカに送った。そしてなんとか1997年の9月に入学できることになった。しかしもちろん卒業するまでいられるわけがない。私は、辛い現実から少しの期間逃げられればそれでいいと思っていた。ジャズを本気でやろうとか、プロになろうとか、全然思っていなかった。むしろ帰国後は再び身を粉にして母との生活のために働き、それで一生終わろうと思っていた。

入学までの間、バークリーからはたくさんの書類が届いた。学費を納めてください。とか、あなたのルームメイトはこの人です。とか、予防注射を打ってください。とか、保険はどうしますか?など・・・。ひとつひとつ対応、確認しながら、相変わらず、マリさんのところと英会話教室にも通う日々が続いた。だが肝心のことは後回しになっていた。家族にはまだ何も言っていなかった。職場にも言わなくてはいけない。帰国後、私は慣れ親しんだ今の職場に復帰できればよいと思っていたが、新しい職場で新しい仕事をしたほうが気持ちが切り替わっていいかなという気にもなっていた。この頃は今ほど不景気ではなかったのだろうか・・。仕事は40才まではなんとかあるだろうと思っていた。ヤマハの教室も休業というかたちをとらなくてはいけない。ヤマハの規定では休職は1年が限度だ。アメリカの大学は4ヶ月で1学期なので、2学期行って退学という形をとるつもりだった。少しだが背負っているものもあり、一度社会に出てから留学するということは、わかってはいたが大変なことであった。

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退職より10か月くらい前の社員旅行、太ももを出しているのが私。家では辛いことばかりでも仕事のときは楽しかった。忙しいとき、失敗したときも多々あったが、経済的、精神的な面でも仕事に救われていたと思う。今でも、かつてよりさらに拡張されたビルの前を通るたび、懐かしく、感謝の気持ちでいっぱいになる。


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