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私の英語学習    荒井英語教室

また小学生の頃の話に戻るが、私は勉強などしたことがなく、夏は外で狂ったように遊び、冬は鼻水を袖口で拭きながらやはり必死で遊ぶというサルのような毎日を送っていた。そんな私が5、6年生になったある日、母親に言われた。「中学生になったら英語の授業があって、ついていけないとたいへんなので、明日から英語教室に行きなさい」「・・・・。」それはとても嫌なことであった。近所の保育園にK楽器からの先生が派遣されてくるピアノのレッスンはときどきやめたいと思いながらもなんとか続けていたが、書道は「墨で汚れるのが嫌だ」と言い、すぐやめた。ソロバンは「アタシ、そろばんで食べていくわけじゃないから・・」と母親に言ってやめたという。私は何をして食べていくと思っていたのだろうか、と今でも思う。先に生まれた長女の私は、とりあえず少しは通って、嫌になってやめるというパターンだったが、後に生まれた長男の弟はもっと悪質で、習い事の時間になると、自分の存在を消すという術を持っていた。そろそろ習い事に行く時間だ、という頃になると「さっきまでいたのに・・・。克美~(弟の名)」と母親はいつも探し回っていた。そんな弟も今は二児の父親になり、ピアノだ、スイミングだ、英語だとせっせとわが子に習い事をさせており、私たちの両親もその送迎に振り回されているらしい。「自分は逃げ回ってたくせに」と母親が弟に文句をいうと、「今は昔とは違うんだ」と言い返されているらしい。私たちはそんな姉弟であった。

「今度は英語か・・・」勉強してるひまはないのに・・・。と思いながら一応は母親の言葉に従いいやいやでかけた。そこは近所の荒井さんという女性が開いている英語教室だった。生徒は案の定、近所の悪ガキどもで、彼らの親も、将来英語についていけなくなるかもしれないわが子のことを憂いて入塾させたのだろうということが、一目瞭然であった。しかし荒井先生は私たちにはもったいないすばらしい先生だった。イギリス留学の経験があり、外見はそうだなぁ・・、サザエさんにでてくる「タエコさん」を細く、きれいにした感じで、髪型は茶色のボブヘア、それになんといっても言葉が違った。矢板弁の母親や、転勤族で九州からきた隣のおばさんの博多弁とは完全に趣を異にし、普通に話していても英語に聞こえるような素敵な日本語であった。先生は私のことを「りかちゃん」と呼ぶのだが、それが他のみんなが言う「りかちゃん」というのとは異なり、ひらがなで表すのは難しいのだが、「るぃっかちゅぁーん」というような感じで、そう呼ばれるとなぜがくすぐったいような、恥ずかしいような不思議な気持ちがした。先生が「るぃっかちゅぁーん、○○ページを読んでください」というとなんとなくみんなくすくす笑い、友達は「なんか、アライセンセイ、利香ちゃんのこと変な風に呼ぶよね」とささやいた。小学校のうちはABCを書くことから始まり、そのうち私たちは覚えたての筆記体を使い、ミミズののたくったような字で自分の名前を書いては喜んだりしていた。中学生になると荒井先生は、私たちを男女別々のクラスに分けると言った。当時性別の判断が難しかった私に対して、悪ガキたちは「せんせー、野中は男のクラスですかぁ?」と悪態をついた。「るぃっかちゅぁーんは女の子だから女の子のクラスよ」先生はそう言い、私は悪ガキ男子のクループと決別できた。前述したが、中学時代はソフトボールに明け暮れていたため、帰宅してから英語塾に通うのは辛いときもあった。しかし眠くてこっくりこっくりすることがあっても、荒井英語教室では学校の授業を先取りしていて、単語や熟語、和訳もすべてできた上で学校の授業に臨めるため、学校では非常に楽で英語の勉強に困ることはなかった。3年間通い、高校受験のときは英語で点数を稼ぐことができた。時が経ち成人して、バスの中でばったり荒井先生に会ったとき、「あら~、るぃっかちゅぁーん、ステキになって~」と、あの呼び方で私の名を呼び、その後、元悪ガキの結婚式によばれたり、外資系の企業に就職希望の元悪ガキの英文履歴書を書くのを手伝ったりしたことを楽しそうに話してくれた。今でも先生は英語を教えているだろうか?イギリス人講師を招いてレッスンしていることを噂で聞いたことがあるが、きっと今もステキな荒井先生でいるに違いない。私の英語の原点は「荒井英語教室」にあるのだと思う。

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英語とお金と音楽と(English and Money and the Music)

奨学金がもらえるという手紙を見せると、マリさんは当然喜んだ。「よかったわねぇ~。行ってくるといいわ」私は思い切って言ってみた。「でも、お金がぜんぜんないんです。両親には頼れませんし、無理かと思います」するとマリさんは「貯めればいいのよ。奨学金は三年間の間に行けば2学期間もらえるって書いてあるでしょう?」(そうなのか~)手紙にそう書いてあるのは知らなかった。(でも、簡単に「貯めればいい」って言われてもなぁ・・・)マリさんによると、留学には学生ビザというものが必要で、その申請の際に、自分はこれだけお金があるので生活費その他を支払う財力があるのだということを証明し、他に留学できるだけの英語力があることも示さなければならないとのことだった。「300万位あれば大丈夫よ。あと英語はTOFELを受けて500点取ればいいのよ」このときTOFELについては何一つ知識がなかった私は500点を取ることが自分に可能なのかそうでないのか見当がつかなかったが、300万の方は貯められそうな、そうでないような微妙な金額であった。仮に私がいない間、母が生活するだけのお金も用意しなければいけないと思ったし、そうするとお金はもっと必要な気がして、やはり実現は不可能だと思った。しかし私が黙って考えているのに、マリさんは「TOFELはルイスに習っていけばいいわ。あと入学してからテストアウト(飛び級)して上のレベルからスタートできるようにしましょうね」と、もう入学した後のことを考えているようだった。私はこの日もはっきり断れず、帰りの電車に乗っていた。

家に帰ってまた考えた。自分は今まで自分の力では何もできないくせに、偉そうなことを言いながら暮らしてきた。ここであきらめたらやはり自分では何もできない人間なのだ。と認めるようなものではないか、と思った。家がどういう状況であれ、まず実現できるように頑張ってみようか。どうせこれからもまた貧乏暮らしが続くだろう、今後いいことなんてないだろう。ほんの少しの期間でもアメリカで生活したという思い出があれば、それを支えにまた必死で仕事をして生きていけるかもしれない。

そんな風に考えた私は、まずTOEFLについて調べた。TOEFLとは米国に留学する外国人が、授業についていけるだけの英語力を示す試験で、単語や文法はもちろん、文学や歴史、地理や生物、物理、宇宙についての幅広い分野から出題される長文読解などで構成され、500点という数字は、バークリーあたりの大学なら、なんとかついていけるだろうという目安になる点数らしかった。書店で「めざせ!TOFEL500」という問題集を買ってきて開くと、わからない長い単語、わけのわからないイディオム、そして全文最後まで読んでも結局何について書かれているのかさっぱりわからない論文のようなもののオンパレードであった。しかし私は学生の頃英語は好きで得意だったので、英語から遠ざかったそのときもそれほど嫌にならず、毎日仕事が終わって家に帰ると、すこしずつ問題を解いていった。「とにかく何回も受けるのよ」とマリさんは言っていた。まず一回受けて自分はどの程度のレベルなのか認識しようと思った。このときまだ留学のことは母にも、離れて暮らす父にも誰にも話していなかった。「どうして今頃になって英語なんか勉強してるの?」と母は不思議そうにしていた。

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