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転落  安い所

環境がガラッと変わった当初は、心臓がどきどきして眠れない日が続いた。今もストレスを感じると軽い不整脈が出てしまうのだが、それはこの頃から始まったような気がする。住所が変わったことを勤務先に報告するのも嫌だったが、届出をしないと不都合なこともあると思い。ある日思い切って直属の上司とナイスメイトの鈴木さんに報告した。私は表向きは以前と変わらず仕事をしていて、家の一大事でパニックになっている母親から「仕事をしないで帰ってくるように」いう電話が何度かあっても、帰らずに平然と定時まで仕事をした。それゆえ二人とも私の家庭環境の激変にはぴんとこない感じで私にはかえってそれがありがたかった。上司は「今までどおりに仕事をしてね」と言い、他人の私生活に興味深々の星野さんがいろいろ詮索してきて困る、と言った私に鈴木さんは「適当にかわせばいいよ。嘘も方便だよ」と国語の先生らしくことわざを使っていった。鈴木さんはナイスメイト業務のほかに国語の授業も担当していたのだ。二人の対応に少し安心した私はますます仕事に没頭していった。

ピアノを教える仕事もしていたが家にはピアノがない、という状態が一年続いた。仕事以外にピアノを弾く気分にはなれなかったが、ピアノのないピアノの講師もいないだろうと思い、せめて電子ピアノくらいは買おうかと言う気になった。母に相談すると「もうピアノはやめたら」とピアノを買うことに反対したが、やはり仕事のため、となんとか母を説得した。一文無しになっても仕事だけをし、生活費以外にお金を使う気になれなかったため、一年経つころには貯金残高も少しずつだが増えていき、電子ピアノを買うくらいはなんということもなかった。

ピアノが手に入ると、趣味でいいからまたジャズピアノを習おうかと言う気になった。すこし気持ちも安定してきたし、何の楽しみもない今の生活ではあまりに自分がかわいそうな気がした。月に何度か都内に行けば、いい気分転換になるだろうと思ったのだ。私は「JAZZ LIFE」を買ってくると、後ろの方に載っているジャズスクールの広告を見て学校を探した。入会金が安く、月1、2回のレッスンをしてもらえ、月謝が安い所を探した。「安い所・・・安い所・・・」スーパーのチラシを見ているのではない。そのうちひとつの広告に目がとまった。大手のジャズスクールの5分の1くらいの大きさの広告であった。入会金は無料、月2回のレッスンで月謝が11000円であり、私の理想にぴったりだった。「これがいいかな・・・」早速電話しようと思い、なんというスクールなのだろうと電話番号のところを見ると「ルイス」とだけ書いてある。「ガイジンなのだろうか・・・?」相手がガイジンなら適当に英語で話そうと思い、思い切って受話器をとった。「はい」と応対したのは以外にも日本人の中年らしき女性だった。レッスンを受けたい旨を伝えると、一度来て下さい、ということになった。能開センターが休みの月曜日を選び、栃木県から行く、と言った私に「駅に着いたら電話ください」とその中年女性は言った。必要以上に親切ではない、だかなんとなくあたたかみを感じるその低い声に、久しぶりに心に光が差し込んでくるような気がした。これが私をバークリーに向かわせたマリさんとの出会いだった。


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