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LOM インターナショナル

田園都市線三軒茶屋駅に着いた。ここで降りるのは初めてだった。マリさんに言われたとおりに歩き、あるマンションの一室でマリさんと会った。マリさんは日本人女性だった。部屋はさほど広くないがパソコンが何台かあり、営業マンのような男性が出たり入ったりしていて、はじめはわからなかったが、どうやら異業種のもの同士でオフィスをシェアしているような感じであった。ピアノやレコードプレイヤーもあった。マリさんからもらった名刺には「LOM INTERNATINAL」とかいてあったが、なんのことかわからなかった。すこし経つと一人の白人男性が部屋に入ってきた。「主人よ」彼がルイスだった。マリさんがピアノを、ルイスがドラムと英会話を教えているらしい。レッスンのほかに留学する人たちの出願から留学するまでのさまざまな手続きのサポートをしているようだった。ルイスはボストン出身で、たしかハーフポーリッシュ。二人は共にバークリー音楽院を卒業していた。今のようにたくさんの日本人が留学する時代と違って、日本人の、しかも女の子の留学生など自分のほかにはいなかった。とマリさんは、後になって言っていた。二人の間にはリサという名の娘が一人おり、外見は西洋人のそれだが、話すと完全に日本人である。無理やりコントラバスをやらされているらしかった。いまは30代真近の彼女も当時は中学生。制服を着て思春期の女の子らしくやや無愛想だったが、私が来る日は彼女も学校帰りにここに立ち寄り、私の演奏にあわせてベースを弾いた。ルイスがドラムをたたき、リサはいつもルイスに「ちゃんと音が鳴ってない」と叱られていた。鳴っていないベースでも、三人で音を出すということは、結構楽しいことであった。そしてレッスンの中でマリさんはそれまで私が聴いたことのない曲を弾かせたり、聴かせたりした。特にWayne Shoterのオリジナルなどは印象的だった。どれも良くできたすばらしい曲に思えた。初めてのレッスン日だったか、少し経ってからか忘れたが、「ずっとここで習っていないで、バークリーに行った方がいいわ。こういうのがあるのよ。」マリさんはバークリーの奨学金取得のオーディションの案内をわたしに見せて言った。そんなものを見せられても、当時のわたしは全財産を失って、なんとか少し立ち直ってきたとはいえ金銭的にも、精神的にも考えられないことであった。一番安いスクールだと思い、入会したのになんてことを言うのだと思い、特になにも答えず、あいまいにうすら笑いを浮かべたわたしに「申し込みの手続きはわたしが全部やってあげるわ」とマリさんは言った。このときの私はまだ何も考えることなく、帰りの電車に揺られている間に、マリさんに言われたことは忘れていた。

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10月24日(土)グリンデルベルグ自治医大店

          亀和田國彦(As)

「ッタータッ、ッターッタッタ、タータター♪」本日のイベントの仕掛け人、マーケットネットワークの目黒氏が、アーティスティック・ジャズ・ワークショップのファーストCDの一曲目に収録されている「Jeannine」を口ずさみながらグリンデルベルグ自治医大店に現れた。このCDを一番乗りで購入していただき、なおかつもう何回も何回も聴いてくれているという。「この曲は・・・・で~、この曲は~」と解説もしちゃったりして、「なんか野中さんたまに間違ってない?」などと辛らつなことも言うが、そんなに聴いてくれているなんてとてもありがたい。「きっとこのCDは名盤にちがいない」と、亀和田氏と言いあった。

ケーキや焼き菓子などが20%OFFになるこのセール、毎年、どうしてこんなに・・というほどたくさんのお客様が訪れる。3日間の中日に私たちはお邪魔した。ありがたいことに演奏に関する問い合わせもあったという。なるほどじっと演奏を聴いてくれている方が何人か・・・。近所に住んでいる生徒の姿もあり・・・。われわれも単なるBGMと言う感じではない演奏に終始した。なぜなら目黒氏はCDの収録曲をリクエストしており、それは「Jeannine」「The Snapper」などややデュオでは演奏困難な(ピアニストにとっては)曲のためそれなりに集中しないと弾けないからだ。これらを演奏すると、待ってましたとばかり目黒氏が店内に入ってくる。本当によくCDを聴いてくれているのだなぁと感心する。いつものリクエスト、「Fry Me To The Moon」「オルフェのサンバ」も忘れずに演奏し、40分三回のステージを終え、お土産にメープルバームクーヘンをいただいて帰った。しっとりとしてとてもおいしかった。本当はいつもケーキを買って帰りたいのだが、混雑のため後日改めて来ようと思う。500円分のポイントがたまっているのだ。それでロールケーキが買いたい!!グリンデルベルグのロールケーキは種類が豊富で太くておいしそうなのだ。その上店内には一年前より新製品が増えていてそれもゆっくり見たいなぁ。

スィーツとJAZZ、なかなかない楽しいコラボレーションである。

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にぎやかな店内。こちら側にもたくさんのお客様がいる。アイスケーキなど新商品がたくさん。ハロウィーンが近いため毎年毒グモ(いや、ただのクモ?)やクモの巣の飾り付けがしてあり、わたしはひそかに「怖い・・」と思っている。黒い毛がふさふさしたような大きなクモなのである。本物でないのはわかっているのだが・・・。

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演奏風景。穏やかな表情の私に対して、亀和田氏は細目がつりあがった怖い顔。いったいこのとき私たちは何を演奏していたのだろうか・・・。

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転落  安い所

環境がガラッと変わった当初は、心臓がどきどきして眠れない日が続いた。今もストレスを感じると軽い不整脈が出てしまうのだが、それはこの頃から始まったような気がする。住所が変わったことを勤務先に報告するのも嫌だったが、届出をしないと不都合なこともあると思い。ある日思い切って直属の上司とナイスメイトの鈴木さんに報告した。私は表向きは以前と変わらず仕事をしていて、家の一大事でパニックになっている母親から「仕事をしないで帰ってくるように」いう電話が何度かあっても、帰らずに平然と定時まで仕事をした。それゆえ二人とも私の家庭環境の激変にはぴんとこない感じで私にはかえってそれがありがたかった。上司は「今までどおりに仕事をしてね」と言い、他人の私生活に興味深々の星野さんがいろいろ詮索してきて困る、と言った私に鈴木さんは「適当にかわせばいいよ。嘘も方便だよ」と国語の先生らしくことわざを使っていった。鈴木さんはナイスメイト業務のほかに国語の授業も担当していたのだ。二人の対応に少し安心した私はますます仕事に没頭していった。

ピアノを教える仕事もしていたが家にはピアノがない、という状態が一年続いた。仕事以外にピアノを弾く気分にはなれなかったが、ピアノのないピアノの講師もいないだろうと思い、せめて電子ピアノくらいは買おうかと言う気になった。母に相談すると「もうピアノはやめたら」とピアノを買うことに反対したが、やはり仕事のため、となんとか母を説得した。一文無しになっても仕事だけをし、生活費以外にお金を使う気になれなかったため、一年経つころには貯金残高も少しずつだが増えていき、電子ピアノを買うくらいはなんということもなかった。

ピアノが手に入ると、趣味でいいからまたジャズピアノを習おうかと言う気になった。すこし気持ちも安定してきたし、何の楽しみもない今の生活ではあまりに自分がかわいそうな気がした。月に何度か都内に行けば、いい気分転換になるだろうと思ったのだ。私は「JAZZ LIFE」を買ってくると、後ろの方に載っているジャズスクールの広告を見て学校を探した。入会金が安く、月1、2回のレッスンをしてもらえ、月謝が安い所を探した。「安い所・・・安い所・・・」スーパーのチラシを見ているのではない。そのうちひとつの広告に目がとまった。大手のジャズスクールの5分の1くらいの大きさの広告であった。入会金は無料、月2回のレッスンで月謝が11000円であり、私の理想にぴったりだった。「これがいいかな・・・」早速電話しようと思い、なんというスクールなのだろうと電話番号のところを見ると「ルイス」とだけ書いてある。「ガイジンなのだろうか・・・?」相手がガイジンなら適当に英語で話そうと思い、思い切って受話器をとった。「はい」と応対したのは以外にも日本人の中年らしき女性だった。レッスンを受けたい旨を伝えると、一度来て下さい、ということになった。能開センターが休みの月曜日を選び、栃木県から行く、と言った私に「駅に着いたら電話ください」とその中年女性は言った。必要以上に親切ではない、だかなんとなくあたたかみを感じるその低い声に、久しぶりに心に光が差し込んでくるような気がした。これが私をバークリーに向かわせたマリさんとの出会いだった。

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転落  奇妙な隣人たち

家賃36000円のこの家は実は宇都宮市内にあった。それ以前は市内より車で30分ほどの郊外の住宅地に住んでおり、通勤するのにもバスで30~40分かけて通っていた。しかし、引越しと共に通勤時間は短縮され、しかも大型SCが徒歩で行け、図書館に行けば、読みたかった本がたくさんあった。環境としては皮肉にも以前より便利になった。「都落ち」でなく、私と母は落ちぶれたにもかかわらず、都に上ってきたのだ。今までのように近所に友達がたくさんいる環境ではなく、「利香ちゃん」と声をかけてくれる人もいなく、御近所づきあいもしたくなかったが、回覧板をまわしたり、町会費を徴収されたりと、多少は御近所との接触もあった。近所を見回すとこの貧困地帯には怪しげな住人も何人かいた。まず我が家の前に住む男性一人、外見は子泣きジジイのようで、年齢は見当がつかない。大家の話によると板前さんだという。確かに昼過ぎに出かけ朝方帰ってくるのは、夜営業する飲食店に勤務するからなのだろうか・・・。名前は「○○久美」といって一見女性の名前かと思うが、「くみ」ではない読み方をする(忘れてしまったが)らしい。彼は特に訪ねてくる人もおらず、静かに暮らしていた。そして貧困地帯の奥のほうにはやはり男性が一人で暮らしていた。「鈴木さん」という50代のおじさんだ。いつも佐川急便の軽トラで我が家の前を通り過ぎ、かならず笑顔で「おはようございます」「こんにちは」とあいさつしてくれた。悲しげに暮らす私と母を哀れんでくれているのだろうか。私はこの鈴木さんの笑顔に、結構癒されていた。母はなぜか「鈴木さんはいい人だけどやくざかもしれない」と奇妙なことを言っていた。本当はどんな人なのかわからず仕舞いだったが、何度か鈴木さんの家に回覧板を持って行ったことがある。あまり見回すと失礼だとは思ったのだが、鈴木さんの家は我が家と同じ間取り、同じ古さにもかかわらず、アジアンテイストのおしゃれな感じにインテリアをまとめていた。素敵なテーブルがあり、コタツにベタ~と座っている。我が家とは違い、いすに座る生活のようだった。意外な一面を見たような気がした。私と母はこの二人の男性を怪しいと思ってみていたが、彼らからすれば私と母のほうが怪しげだっただろう。突然引っ越してきて、しかも私は身なりはきちんとしていたので、ぼろぼろの家から、長身の美女(私のことである)が出てくるのを見て、どうみても財産を失い、落ちぶれた家族の犠牲になった若い娘に見えただろう。他にも小さな子供がいる若夫婦など普通の家族もいたが、大部分はあまり恵まれていない人たちのようであった。しかし、いやだから、と言うべきか、なんとなく奇妙な連帯感のような雰囲気が漂っており、その中でそれぞれの生活を営んでいた。

「あの家はいまでもあるの?」母はよく私に尋ねる。たまに通り過ぎるが、通りからかつての我が家は見えない。しかし壊れかけたキャラメルの箱のようなあの家はまだ取り壊されずに残っているようだ。あの時住んでいた住人たちは今でもいるのだろうか。思い出すと、あんなところに住んでいても私と母は結構楽しく、幸せだったのだ。いいたいことを言い、二人でつつましい食卓を囲み、夜は外に出て星を見ながら話をした。健康だったし、仕事にも恵まれていた。すべてを失ったと思ったが、そうでもなかった。幸せそうに見える人がそうでなかったり、苦労しているように見えても本人はあまり感じていなかったり、実際の境遇より、心の持ちようで、幸せか不幸かに分かれるのだ。と今になって思う。

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転落  「NAMEKUJI」ワンダーランド

母と二人の生活が始まった。私と弟が学生だった頃は、私たちが学校に行っている間だけ、パートの仕事をちょこちょことしていたが、ここしばらくは専業主婦だった母も、仕事を見つけ働くことになった。このとき母は50才を過ぎたところであった。母が出勤したあとに私が出かけるのだが、私はかつて家の鍵を閉めて出かける、ということをしたことがなかった。それゆえ、ただ鍵をかけるだけなのにいつも緊張していた。自分は世間知らずだった。といろいろな場面で感じることが多くなり、だが少しずつ「私は世帯主なのだ。自分でやろう」という自覚もでてきた。

それまで自立したいと思ってもなかなかできなかった私だが、図らずも自分で生活することになった。世帯主は私、住所変更に伴い、分籍して自分の戸籍をもった。家賃は36000円、とても安いが築40年ぐらいのぼろ家である。家賃はなぜか引き落としではなく、毎月大家の家まで持参することになっていた。立派な大家の家に行くのは本当に嫌であった。しかしこれを母親にさせるのはかわいそうだと思い、私が毎月納めに行った。光熱費なども私が払い、食費と家事は母が担当という具合で生活の形が決まっていった。家は落ちぶれた私たちにぴったりなものだった。4畳半と6畳間の二部屋に台所、キッチンなどとはいえないものだ。そしてトイレとお風呂、このお風呂にはよくナメクジが大発生した。お風呂に入ろうとすると壁に張り付くナメクジが5、6ぴき、楽しそうにうねうねしているのをはじめてみたときには卒倒しそうになった。それからは入浴前にはまずナメクジの発生状況を確認し、彼らを撤退させてから入浴するようにした。はじめは嫌だったが、慣れてくると、彼らに塩をふりかけて本当に溶けるのか実験してみたりした。それに数年に一度、1月くらいの期間、ねずみに悩まされることがあった。母が留守の時に外から帰って玄関を開けると「ガサッ」と物音がする。夜、寝ようとして電気を消すと「ガサッ」そしてササササササッ!!と何かが走り回る物音。まさかと思って母親に相談すると、「ねずみだよ。この家古いからね・・・」と困ったように言った。母は前々から気付いており、私が気付いたらさぞ大騒ぎするだろうと心配していたらしい。それから母と二人、ねずみ退治が始まった。ある日、ゴキブリホイホイが大きくなったようなべたべた張り付くタイプのものを仕掛け、母と外出先から帰るとまんまと奴がかかっていた。大暴れし、脱糞している。私は気を失いそうになった。キャーキャー言いながら、この惨状を片付けるのが一苦労であった。そして女所帯にこのタイプのものはふさわしくない。ということで、ねずみが食べると、気分が悪くなって家の中でないどこかで死ぬ。というタイプのものに変更した。やがてこれは効き目を発したようである。そのうちねずみは出なくなった。それまではいつ彼らに遭遇するかとおびえる日々が続いた。食器棚を疾走する彼らを見たときは、もう生きていけない位のショックを受けた。母は「嫌なもの見せちゃって、ごめんね。苦労かけるね。」としょんぼりしていた。

しかし最近になって、ねずみに悩んでいる、と話す生徒がいた。ピアノの中に入ってしまって大変なことになったらしい。私はこの過去の体験から、大得意で野中先生おすすめの殺鼠剤を彼女に紹介した。後日、彼女が言うには、私の紹介したものは10年以上の研究期間を経て、さらにパワーアップされたものが開発、販売されており、そのおかげでねずみは出なくなったと喜んでいた。「先生、ありがとうございます!」ピアノのレッスン中にこういう話をするのもどうかと思うが、何事も経験、私にもピアノ以外にまだまだアドバイスできることがあるのだ。と変な自信を持った。

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10月3日(土)4日(日) 鬼怒川温泉 

月あかり花回廊 「序章」

B-STYLE    沼尾賢一(B) 菅野公士郎(Ds)

ゲスト      3日(土) 平野初枝(Vo)

          4日(日)鈴木美佐子(Vo)

夜の鬼怒川温泉街を歩きながら、あかりで演出された橋、通り、植物、オブジェなどを見たり、トークやコンサートを楽しむ、初のイベント。我々は「湯の街公園」というとてもきれいな広場での演奏であった。すでに暗くなった公演に着いてセッティングが完了してもお客さんが集ってくる気配はない。それでもいざ演奏を始めるとどこからともなくお客さんが集ってきた。月、星、夜などに関する曲を選び、ヴォ-カル入りの曲を含め「ムーンライトセレナーデ」「スターダスト」「ブルームーン」など両日約20曲を演奏。ノンアルコールの甘酒もふるまわれた。はじめから終わりまで寒い中、じっと聴いてくれていたありがたいお客さんもいた。途中、旅館の窓からどなり声がする。「うるせー!やめろ!!」と言っているのだろうか・・・。と不安になったが、あとから聞くと「ブラボーー!」と言っていたらしい。海外からの宿泊客の御夫婦にも英語で「良かった」と話しかけられ、我々も感激。

二日間とも満月に近いまん丸のお月様を見ることができた。しかし鬼怒川の夜は宇都宮と違ってとても寒い。昼間のあたたかさから夜の寒さをイメージできない私は「夜は寒いよ、って言ってるのにそんな格好で来て~」とメンバーに言われる。終演間際は震えるほどの寒さになっていたが、なんとか風邪をひかずに済んだ。

趣向を凝らしたさまざまな催しが企画された今回の「月あかり 花回廊」今後も続いていくことを期待したい。

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山からのぞいたまん丸のお月様。

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一日目、寒さに震えた~。

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昨日、鬼怒川の寒さを学習した私は一応冬物のスカートにタイツ。寒いはずだが鈴木美佐子は恍惚の表情・・・。

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