« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

クレストフォー 回顧録

思えば昨日8月12日は、故山本安則氏の命日であった。そんなときに意図せずたまたまクレストフォーについて書こうとしている。氏が「思い出せ」というメッセージを送っているのだろうか。

確かオリジナルメンバーになって10年を迎えたあたりで、山本氏は亡くなり、クレストも無くなったのではないかと思う。そもそもジャズコンボの世界では、バンドで活動するというよりも、言葉は悪いが「寄せ集め」で、そのときそのときの演奏を楽しむ。というミュージシャンが多いだろう。また普通ジャズをやり始めると、まずジャムセッションに通って腕を磨く、というのが一般的だと思うのだが、私はいきなりバンド活動からはじめた。ビッグバンドの仕事で知り合いになった山本氏に誘われ、クレストに加入すると、氏が取ってきたレストランでのライブやパーティでの演奏をやりながら、ジャズでよくやる曲はこんな曲なのだということや、テーマからソロを回し、またテーマに戻るといった演奏の仕方も理解していった。弾けないのにいきなり仕事をしてしまうというのもずうずうしいような気がするのだが、今思うと、クレストに加入し演奏活動できたことはとてもラッキーだった。県内はもちろん、県外にも出かけていった。暑いとき寒いときの戸外での演奏、虫がたくさん飛んでる中でも演奏、披露宴はもちろん、葬儀場のオープンのときに祭壇のあるホールでも演奏した。ついには山本氏の葬儀でも読経中以外はすべてJAZZ演奏に終始した。これまでやった演奏のたくさんの写真、録音、映像が残っている。

私は2002年に音楽家として独立した。それまでは会社員などとして仕事をしながら、ほそぼそと、時に途切れながら音楽活動をしており、バンドはクレスト以外は全然やっておらず、他のジャズメンと演奏することはほとんどなく、知り合いもいなかった。しかし独立してからは自然といろいろなところに出て行くようになった。まず、B-STYLEでの活動が始まった。そしてアーティスティック・ジャズ・ワークショップへの加入。山本氏は「似たような編成のバンドを掛け持ちするな」「クレストの演奏だけに集中しろ」「あまりいろいろなところにですぎると価値が下がる」などと私の演奏活動に対して批判したが、私は音楽で生活しなくてはいけないので、活動を限定させることはできない。と聞く耳をもたなかった。この頃から多少氏とぎくしゃくするようになった。わけもなく人前で怒鳴られたりもした。しかし私は感情を表に出すこともなく、演奏だけに集中しようとした。

そのうち氏の病気が発覚した。はじめは信じられず、何かの間違いではないか、他人のカルテなのではないかと何度も言った。しかし氏は自覚症状はないが、あまり良くないのだ。と言った。手術をし、すぐ復帰したときは早期発見が功を奏したのだと、ほっとしたが、また悪くなり、結局発覚から1年で亡くなってしまった。いまだに病気だったことが信じられないのだ。演奏中に倒れ、救急車で運ばれていったときでも、「またすぐ治るだろう」と本当にそう思っていた。

「クレストを頼む・・・」他のメンバーに氏はこういい残したと言う。しかし私はリーダーを失ったバンドの存続は不可能だと思った。氏の死後2年たった今でもいろいろな人に聞かれるが、もう「クレストフォー」で活動することは、少なくとも私としてはない。

10年もひとつのバンドが続いたことはすばらしいことだ。そんなバンドにかかわれてよかったと思う。そして私はこの世のものが無常である。ということがわかりかけてきたのだ。

Img

2005年12月、今市市の「珈茶話」にて。「クレストフォー」のライブをいつも聴きに来てくれた方、応援してくれた方、新旧メンバーの方々、本当にありがとうございました。

| コメント (0) | トラックバック (0)

8月16日(日) 那須ガーデンアウトレット

B-STYLE      Kenichi  Numao(B)  

            Koushirou Kanno(Ds)

 Guest       Kunihiko Kamewada(As) 

Supecial Guest   Paris Lundon(Vo)

 Parisは米国出身、埼玉在住のゴスペルシンガーである。私とは婚礼の仕事で知り合った。クレストフォー時代に故山本氏に紹介して以来、バンドでも何度か一緒に仕事をしている。今回もクレストとの演奏と思っていたらしいが、山本氏が2年前に亡くなったことを伝えると驚いていた。以前からParisをヴォーカルにむかえ、楽しくイベントができるといいと思っていたので,、忙しいParisとやっとスケジュールが合い、久しぶりに実現する運びとなった。ParisはJAZZが歌いたいと言ったが、私はParisが歌うアメリカン・ポップスがとても好きなので、それも歌ってくれとお願いした。カルテットでは夏らしいボサノバやラテンをメインに演奏することにした。

当日、Parisは奥さん(MG)、五人の子供たちとにぎやかに現れた。高速が混むのでかなり早く埼玉を出たらしい。打ち合わせで最後にメンバー紹介を頼む、と言うと、男性三人の名前がみなKなので混乱していた。本番になるとParisはパワー全開。本人によると「頭真っ白な状態」らしいのだが、お客さんを乗せるのが本当に上手い。他の曲を歌いながら見事にテーマに入る「Stand By Me」。ソウルフルな「男が女を愛する時」。「明日に架ける橋」では感動のあまり涙を流すお客様もいた。ステイビー・ワンダーのまねをして観客を笑わせた「Isn't She Lovely?」など、約10曲を熱唱し、心配だったメンバー紹介も完璧にやっていた。暑い時間帯の野外のステージだったが、多数のお客様にお集まりいただいて、手拍子あり、笑いありの楽しいステージになった。

Paris一家はお盆の渋滞のなか、無事、春日部に帰れただろうか・・・。今度また共演できるのはいつになるだろうか・・・。Parisにもらったエネルギーで、残り少ない夏、演奏活動に励みたい。

Img_2508_2

| コメント (0) | トラックバック (0)

迷い道 ⑥ 史上最強のナイスメイト

結局、バークリーに留学するまでの7年間、能開センターに勤務した。入社して2、3年する頃にはかなり仕事に慣れ、事務の仕事を心から楽しいと思えるようになっていった。私は主に生徒の成績管理の担当を任され、テストの点数をコンピューターに入力、生徒個別の成績表を出したり、順位表を出して掲示してもらったり、入試が終わった際は誰がどこの学校に合格して、どこに進学したかなどの調査などをしていた。この仕事は「○○高校に○人合格!」などど張り出す際に関係してくる、重要な仕事と認識していた。他にはお客さんが来たり、社員の会議があればお茶汲みもし、コピー取り、それとテスト問題や配布物の印刷などやることは山ほどあった。それらの合間にも父兄からの電話や、来校にも応対する。進学、進級が一段落して落ち着く5月以外は、いつも忙しかった。

はじめは怖いと感じた鈴木さんは、とても頼りがいがあって優しく、私を信じていろいろ任せてくれた。休みの日はテニスをしたり、温泉にいったりもした。星野さんとも共通の話題が多く、楽しく仕事をした。意地悪だった高松さんもだんだん協力し合えるようになり、そのうち彼女は結婚して栃木を離れていった。後輩になる新しいナイスメイトも何人か入ると、私は彼女らに、仕事を教えたり、新規採用の面接の際には社員と一緒に出かけたり、新しい校ができる際はそこに出向いて、落ち着くまで校が必要なものをそろえたり、一人で事務の仕事や生徒募集の受付をしたりもした。

「お茶汲み、コピー取りなんてつまらない。もっとやりがいのある仕事がしたい・・。」当時よく読んでいたビジネス系の雑誌には、女性の仕事に対する悩みとして、よくこのようなことが書いてあった。しかし私はまずこれらの仕事をきちんとやることが、仕事の原点であると思う。鈴木さんは大先輩なのに、私が根をつめていそうなときはそれを察知してお茶を入れてくれた。しかも緑茶は超濃く、珈琲はミルクたっぷりの超甘、という私の好み通りのものであった。仕事ができる人のいれたお茶はおいしいのである。

今は全然違う業界にいるが、仕事の仕方や仕事に対する姿勢はここ能開センターで学んだと思っている。

仕事もなんとか落ち着き、続けていけそうであった。週に一度はピアノ講師の仕事もし、夜は週に数日ラウンジでピアノを弾く仕事もしていた。バンドはスィングストーンのダンスの仕事も多く、また後述するが「クレストフォー」に加入したのもこの頃だった。

一見充実した若者らしい毎日を送っていたようだったが、実家にいて生活は親がかり、自分の力で生きているわけではなかった。でも家を出る勇気はない。もっと自分でつかんだ何かがほしいと思っていた。

Img

OLらしくいろいろなところに旅行に行った。これは鎌倉にて。隣にいるのは鈴木さん。

Img_0001

初期のクレストフォー。都内赤坂東急Hにて。まだメンバーが固まっていない頃だと思う。SAXはもちろん故山本安則氏。

| コメント (0) | トラックバック (1)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »