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Au Privaveで阿波踊り?

いくら私がノーテンキでも、当時の自分の演奏がJAZZであるとは思っていなかった。私はどこかのジャズピアニストにピアノを習いに行こうと考えた。誰に聞いたか忘れたが、もしかして前出の小杉さんかもしれない。「板さんはすごいよ」彼がそう言っていたのを覚えているのだ・・。板さんとは板前さんのことではなく、足利在住のピアニスト「板倉克行」氏のことである。

足利まで行くのは当時の私にとっては大変だった。板さんにレッスンを受けたいと連絡をとると、どうやって来るのか聞かれたのだと思う。私は自分の車がなかったので、JR東北線、両毛線を乗り継いでいく。と答えた。すると板さんは「大変だなぁ・・。じゃあ{タマ}が足利駅まで迎えに行くから」といった。「タマ?」猫が迎えに来るのだろうか?初レッスン当日、私はやっとの思いで足利駅に着いた。すると「野中さんですか?」若い女性が素朴な笑顔で近づいてきた。「タマ」さんとは「板さん」の奥さんなのか・・。と私は理解した。「タマ」さんの運転で、板倉邸に着いた。よく覚えていないがミュージシャンらしい個性的な感じのする家で、家に入るとすぐ、グランドピアノがボーンとあった。「よくきたね」板さんとタマさんはかなり年の差がありそうに見えた。タマさんは生まれたばかりだという女の赤ちゃんを抱いて見せてくれた。板さんも目を細めて幸せそうであった。

板さんはまず「ブルースを弾け」と言った。「スタンダードジャズのすべて」という赤くて太い本を開いて「{Au Privave}これをやろう」「これをやろう」と言われてもどうやるんだろう・・・。しかし考えるより先に手を動かした。私は今でもこの傾向がある。ほんの少し考えてから弾けばよりましな演奏ができるかもしれないのに、弾いてからあれこれ気づき、ドツボにはまるのだ。まぁこの欠点を自覚しているだけ、よしとしよう。「Au ~」はFのブルースだが「Bag's Groove」などと比べるとテーマを弾くのはやや難しい。それに左手の押さえ方はできていたのだろうか?思い出せないが、たぶん苦しみながらテキトーに弾いたのだろう。すると板さんは「イェイ」「アオー」「ダバダディヤ」などと意味不明の言葉を発しながら、クラッピングしつつピアノの周りをまわり始めた。「!」私は、板さんの動きを止めてはいけないと思い、なんとか演奏を続けた。そこにタマさんが赤ちゃんを抱いて入ってきた。そしてあろうことか赤ちゃんをグランドピアノの上に寝せると、「ハッ」「イェイ」と板さんと共に踊りだした。二人とも腰を落としたりして、さながら阿波踊りのようであった。私はJAZZの真髄?いやこの夫婦の真髄を見たような気がした・・。

実は板さんはフリージャズのピアニストだった。主にケシャバン・マスラクというサックス奏者と演奏活動していた。私のようなものが教わってはいけない人だったのかもしれない。

今はJAZZ教育もシステム化しつつある。「左手は7th、3rdにテンションを加えて」とか「ソロはブルーノート、ペンタトニックスケールも使えます」板さんはそんなことは一言も言わなかった。私はJAZZは習うものではないのだ。と気づき始めた。

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6月21日(日)那須ガーデンアウトレット

             B-Style

           沼尾賢一(B)

         菅野公士郎(Ds)

        ゲスト

         亀和田國彦(As)

         鈴木美佐子(Vo)

三人の血液型が偶然B型だったため、このようなバンド名になった。きっと長続きしないだろう・・・と、結成当時はバンド名をつけることさえ無駄なような気もしたが、予想に反して5年以上続いている。ファンの方からは「最近ますますまとまってきた」と好評活動中である。トリオで演奏する時と、ゲストプレイヤーを迎える時がある。今回は「僕もB型だから入れてよ」がお決まりのセリフの亀和田氏、そしてアウトレットJAZZライブ初のヴォーカリスト鈴木美佐子嬢(血液型は不明、次回確認します)を加えての豪華な編成となった。そしてこの日は父の日、漫然とスタンダードを演奏することだけは避けたい。何かテーマを持って演奏しよう。ということで「父の日に贈るJAZZナンバー」と題し、「お父さんっぽい?曲」を選んだ。「SONG FOR MY FATHER」はJAZZファン以外にはなじみがないとは思ったが、やはりタイトルに「FATHER」がついているので演目に入れた。他、リクエスト頻度No1の「TAKE 5」。コマーシャルでおなじみの「WORK SONG」「SING SING SING」など・・・。「なんかどれも曲調が似ているなぁ・・・。」とは思ったが、同じキーが続かないように曲順を決めた。

梅雨時なので雨、ということも予想していたが、朝起きると土砂降りだったのにはややめげた。予報も一日雨、だと前日から天気予報で言っていたので、あきらめて現場へ向かう。土砂降りの中でセッティングするのは大変だなぁ。と思い、お尻に穴の開いた合羽を着て、台車にアンプを載せてうつむき加減にごろごろ・・・。「清掃員かと思った」とメンバーはびっくり、「私だよ」アウトレットの清掃員の方のユニフォームは私の合羽姿より数段かっこいいのだ。

「父の日に贈るJAZZ」と掲示、アナウンスしていただいたので、たくさんのお父さんたちに集まっていただいた。あんなに降っていた雨も、演奏が始まる頃にはやみ、晴れ間ものぞいた。日頃、奥様やお子様の買い物に運転手としてお付き合いして、じっと待ってるお父さんたちに、ささやかではあるが「お疲れさま」のメッセージを込めての演奏。私もいつも父の運転でいろいろなところに連れて行ってもらったのを思い出したりした。いいイベントになったと思う。

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「ヤッターマン」の悪い三人組にそっくり、と言われるわれわれB-STYLE。女の親分(ドロンジョ)+いつもドロンジョに叱られているドジな子分(ボヤッキー&ドロンボー)・・。って私はいつも怒ってないよ~。ドロンジョのようにSEXYだといいのだが・・・。

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こちらはゲストのお二人。共演ありがとうございます!!

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スィング・ストーン・オーケストラ 今昔物語

楽器店でのレッスンはとりあえず週一日、木曜日を選んだ。はじめての生徒は三人。貴重な三人である。私は張り切ってレッスンに励んだ。

少し経って、楽器店から、ピアニストを探しているビックバンドがあるのだが、やってみないかと言われた。なんと言われた日に本番があるという。私はビックバンドとはどういう音楽をやっていて、また私は今夜どんな演奏を求められるのか全然わからなかったが、こわいもの知らずで出かけていった。それはダンスパーティだった。やや老の割合が高いようだったが、老若男女がたくさんいて、ときに相手を変えながらひたすら踊るのだ。ダンスが上手い人もそうでない人もいろいろいて、演奏するわれわれの前で、ドベーッと転んだおばちゃんのパンツが丸見えになったりと、面白いことも多々あった。音楽はダンスのステップの種類だけあって、スィングはもちろんラテン、スロー、チャチャチャ、ジルバ、フォックストロットなどのリズムで、ジャズ、ラテン、映画音楽など次々と演奏する。ビックバンドのメンバーは20人ほどいたか。おじさんが多く、サックスやトランペット、トロンボーンなどの管楽器は、もしかしたら初めて見るものであったかもしれない。楽譜はどれも蛇腹状態になっていてべローンと長いのだが、音符はあまり書いてなく、コードとリズムパターンが主であった。私は小学生の時、家にあった母のクラシックギターをたまに弾いていたので、独学でコードは覚えた。ピアノでもコードで当時のいわゆるニューミュージックや歌謡曲を弾きながら下手な歌を歌ったりした。B7とBm7を混同して使い、「なーんか変な音だなぁ・・・」とコードブックを確認して、自分の間違いをひとつずつ直して、見につけていった。そんなわけで専門学校でもコードは覚える必要なくきたので、演奏自体にあまり抵抗はなかった。しかしよく考えると、コードは右で弾いても、左手が暇で、左で弾くと右手はすることがない。「左手でベース弾いたら、ベーシストとぶつかるしなぁ・・・」そこで私は両手で同じ音を弾くことにした。Cと書いてあれば右手も左手もドミソでジャンジャン、Gとあればソシレ、たまにシレソにしたりしてジャンジャン、楽譜に書いてあるピアノソロは間違えながらテキトーに弾いた。(こんな演奏でいいのかなぁ・・・?)ノーテンキな私でもそのくらいのことは感じた。が、特に演奏に関しては何も言われなかった・・・。「わ~い。ジャズって簡単じゃ~ん!!」ジャズピアニストの小杉さんは「ジャズは頭が良くないとできない」というようなことをニヒルに言っていたが、そんなことないじゃないか!私はすっかり有頂天になり、初めてのジャズ演奏(らしきもの)を終えた。そしてそのままスィング・ストーン・オーケストラに加入した。

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1990年のイベントでの写真。今会うと、皆変わってないようだが、こうして写真を見るとやはり20年前は、髪の毛が黒かったなぁ・・・。と思う。(私は今でも一応黒いが・・・)

スィング・ストーン・オーケストラ(SSO)の「ストーン」は大谷石で有名な、宇都宮西部の大谷地区を発祥の地としていることから、バンド名の中に入れられたらしい。鹿沼出身のメンバーも多数いて、宇都宮市飯田のメンバー宅の倉庫で、週2日練習していた。現在は以前降った大雨のためで使用できなくなってしまったが、グランドピアノがあった。私は加入後数年はレギュラーピアニストで、練習も欠かさず参加していたが、そのうち家庭の事情で脱退せざるをえなくなった。その後、新しいピアニストが入ったらしい。ということを風の便りで聞いた。

20年前は、トラ(臨時雇い)のメンバーを数人入れながらも、ビックバンドといえる数(18人ほど)でダンスパーティやイベントの仕事をこなしていた。ところがそのうちだんだんメンバーは減り、仕事も減り、今のSSOは残念ながらオーケストラといえる状態ではない。メンバーといえるものは3人ほどしかいなく、練習もしていないと思う。ところが私はここ数年、彼らから、年に一度の貴重なお仕事、老人ホームのクリスマスパーティに呼ばれるようになった。やはり私のピアノがいいのだろう。(と勝手に解釈)年に一度のその仕事で、古参メンバーの兼目氏はいつも私にこう言う。「野中さんはすっかり出世したねぇ」と・・・。そう言われても私は自由業の身ゆえ、社長や部長になったわけではないのだが、彼は「いろんなライブハウスで演奏していてすごいね」という意味のことを言っているのだ。20年の時を経て私の演奏スタイルは確かにあの頃とは変わっただろう。しかし私の原点は間違いなく「スィング・ストーン・オーケストラ」なのだ。皆に会ったとたん、気持ちがパッとあの頃の私に戻る。もたったかと思えば走り、音程はずれ、一緒に始まり、一緒に終わればもうそれだけでよし、とするような演奏なのだが(失礼)私はこれからもSSOのメンバーであり続けるつもりである。

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2006年12月、私はニヤニヤしているように見えるかもしれないが、これは愛嬌・・というかサービスの一環である。おじいちゃん、おばあちゃん、職員の皆さんに喜んでいただいている。演歌だってダンスの曲だってなんだって演奏しちゃうのだ。(老人保養施設にて・・・。)

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ある ジャズピアニストの出会い

新講師の研修は、日吉で行われた。確か私のような地方からの講師は、研修センターのようなところに2.3泊したと思う。ヤマハ全体の研修センターなので、食堂などに行くと、スポーツ部門、家具部門に勤務する予定の新入社員もいた。食堂で「どっちの方面ですか?」と聞かれ、専攻楽器のことかと思い「ピアノです」と答えると「あ~、音楽の人ね。僕は家具。」と言われ「音楽の人だけじゃあないんだ~」とびっくりした。そこで館林から(足利市からと言っていたかも知れぬ)来たという一人の男性に会った。名は小杉寿男さん。彼が言うには、自分はジャズピアニストで、宇都宮でもライブなどをしているという。女性が圧倒的に多い中、ひげを生やした彼はかなり異色の存在であった。研修はほぼ講義形式だったが、実際レッスンで使うテキストなどの説明をした後、研修担当の先生が言った「それではどなたかに、先生と生徒になっていただいてレッスンをしてみましょう。先生役は、えーと小杉さん。」「困ったな~」彼はしぶしぶ立ち上がるとそれでもなんとか生徒役の先生を相手に、レッスンのシュミレーションをして見せた。私たちはぱちぱちと拍手をしながら(自分たちが当たらなくて、よかった~)と胸をなでおろしたのであった。一日の研修が終わり、夕食を済ますと、私たち地方からの講師はひとつの部屋に集まり、今後のことについていろいろと語り合った。「真面目に講師でもやろうかと思って、試験を受けて、受かったけど、自分は講師に向いているとは思わない」小杉さんはそんな風に言ってような気がする。私は自分からは何を話したか覚えていないが、小杉さんが私に「君もジャズやってみれば?頭悪くなさそうだし・・・。」と言ったのを記憶している。もっともその時(頭悪くなさそうってことは、良くもなさそうってことか・・・)と思い、それほど真剣に受け止めていなかったが、彼のこの言葉は池に投げた石でできる波紋のように私の心に広がった。でもそれは小さな小さな小石であった。

研修が終わり、私たちは稼動する予定の地元に帰った。一度だけ、かつてオリオン通りにあったライブハウス「GROOVY」に小杉さんのライブを聴きに行った。ピアノトリオだった。彼は「小杉銀次」という銀次名・・いや源氏名で出ていた。初めて聴いたJAZZの生演奏だったのかも知れないが、どんな感想を持ったか覚えていない。感動したか・・・、私もああなりたいと思ったか・・・、覚えていない。しかし彼の弾くピアノはまさに彼自身だった。

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