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迷い道 ④ ピアノ講師のオーデションを受ける、の巻

幼児教室に勤務しながらも、私は常に転職を考えていた。ここの仕事は楽すぎた。キャリアウーマン(?)を目指す私は力が有り余っていたのだろう。履歴書をたくさん買って、貼付する写真も用意し、日曜日は新聞折込の求人情報すみからすみまでチェックした。実はこの求人情報をチェックするのが、癖になってしまい、いまだにその癖は抜けない。まぁ今はそれほど真剣に見ていないが・・・。しかし当時に比べると、求人誌の数は激減していると思う。そこである日、音楽教室の講師募集の求人を発見した。問い合わせると、オーデションを受けてくださいとのこと。当時ピアノは弾いていなかったが、学生時代にさらった曲を引っ張り出し、練習した。課題曲などもあり、音楽理論などの筆記試験、作文などもあったように思う。必要書類を揃え、新横浜まで、オーデションを受けに行った。

就職と同時にピアノは辞めたはずであった。しかもこの時点で、卒業から1年もたっていないのにすでに2つ目の職場にいて、なおかつ転職しようとしている。私はどこに向かっていこうとしているのか、どこに行きたいのか、全然わかっていなかった。

「新横浜って、都会だなぁ・・・」試験会場はなんと横浜アリーナであった。この日の記憶はほとんどないが、筆記試験で会場に入ると、専門学校時代のシンセサイザーのK先生が、試験監督者として、そこにいた。先生は今もこの音楽教室の講師スタッフで、楽器はベースなのだが、研修などでたまにあう。「先生は偉い人だったんだ~」私はその時そのように思った。一人だけでも知っている人がいて、少し安心した。言葉は交わさなかったが、先生も私に気づいたようであった。

試験が始まり、先生は教室をまわり始めた。そして私の解答用紙をしばらく見ると皆にむかって言った。「つまらない間違いで点を落とさないよう、よく見直してください」「なに~?私の答案を見た後にそんなこというなんて失礼な!」鼻息を荒くしながらふと答案を見ると私はバカミスを犯していた。「あぶない。あぶない。先生の言ったとおりだわ」先生、ありがとう、と心の中で手を合わせた。実技は○○のひとつ覚えで「ラプソディ・イン・ブルー」を弾いた。だってこれしか弾けないんだもん!!

K先生のお陰か、私は無事オーデションに通った。しかしこれですぐ仕事・・・というわけではなく、まず研修をやる、との連絡がきた。私は幼児教室の仕事を休み、日吉まで研修を受けに行った。

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迷い道 ③ 幼児教育の巻

子供がプリントをやりながら自己学習していく、「○文式」という教室がある。私が次の職場に選んだのはそこのアシスタント業務であった。職安で見つけ、紹介してもらったのだ。その教室ではプリント学習のほかに授業もあり、0歳児から幼稚園児までの,お母さんに付き添われてくる子供に紙芝居を読んであげたり、おやつを食べさせたりするのが私達の仕事であった。私は専門学校で幼児教育も学んだので、オルガンを弾きながら、歌を教えたり、リトミックを教えたりもした。それからなんといっても、インプット学習といって「たしざんの歌」や「○もんちゃん世界一周の歌」など、子供が歌いながら覚えてしまう英才教育がその教室の「売り」で、なんとかわが子を「天才」にしたい母親とその子供達でいつも教室は朝から夕方まで大忙しだった。私のほかにアシスタントは5人ほどいて、私以外はみな結婚したばかりの若い主婦だった。仕事が終わった後、彼女らの家に招かれ、よく夕飯を御馳走になったりした。皆でカクテルを作って飲んだりした記憶もある。そんな私達の頂点にはこれらの英才教育の内容を開発したO先生がいた。O先生の授業を見に、全国からたくさんの先生が見学に来た。O先生はカリスマ的存在らしかった。当時50代だったO先生、今も教室はあるらしいが、現役で教えているのだろうか?

そして当時教室に来ていた子供達は現在どうしているのだろう。成人している子供がほとんどだと思うが、みな天才になったのだろうか?一人でも何者かになった子がいたとしたら英才教育を重要さを認めたいと思うのだが、今の所そのような噂は聞かない。中学生になるまで勉強などしたことのなかった私にとって、あの異常なまでの熱気にあふれた幼児教室は特殊な職場であった。

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教室のロッカーで、ベストと真っ赤なスカートが制服であった。「たす(足す)1(いち)、たすいち、たすいちは次の数、1の次2~!2の次3~!3の次4です楽しいなぁ~~♪」こんな歌を歌っていた。

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迷い道 ② 営業ウーマンの巻

ここからの私の就職人生は山あり谷あり、というか谷あり谷ありである。就職したのはいつだろう・・・。年金手帳を見てみる。平成元年である。当時はバブル後期だろうか。今のような就職氷河期などという言葉はなく、さほど優秀な学生でなくても一人に対して2、3の就職候補先があったように思う。私は全国組織のある会社に入社した。その会社は多少形を変えているが、現在も市内に支社が存在していると思う。四月からの仕事に向けて三月末、研修があった。「社会人とは、仕事とは・・。」実務的なものに対する研修というよりは、かなり抽象的な内容だったと思う。支社長は日経新聞の記者あがりだという。残念ながら名前は覚えていない。酒好きの人にありがちな赤黒い顔をしていてとにかく怖かった。嫌いではなかったが油断できない感じであった。その研修で、私たちは「自由とはどういうことか」「平等とはどういうことか」答えろといわれた。簡単そうだが、いざ答えるとなるとなかなか難しい。主に仕事において、ということだが、前者は、自分の経済力、責任下において自立して生きられることであり、後者は給料面で、頑張った人と、そうでない人に差をつけることである。と叩き込まれた。今でもこの解釈を思い出すことがある。新入社員は10人くらいいただろうか。しかし辛い営業職のため皆次々と辞めていった。同期で仲良くなった、笹島、吉田、篠原とは苗字の呼び捨てで呼び合い、いつも仕事が終わると駅前のドーナツ屋で愚痴をこぼした。週末はよく飲みに行った。夜中まで遊ぶこともあり、心配した吉田の両親が警察に捜索願いを出し、それが発令される前に偶然帰り、びっくりされたこともあった。私たちは皆、背が高く、骨太な、暑苦しいタイプだった。男性から見ると目障りな存在だっただろう。飲みに行って大声で騒いでいると、よく「うるせーなー」と嫌がられた。

はじめに篠原が辞めた。次に私が辞めた。3か月しかもたなかった。その後、吉田が辞め、笹島は一年ほどいたように思う。家ではもうピアノはもう弾くことはなかった。が、支社長からJAZZのLPを借りたことを記憶している。誰のなんというLPかは不明だ。この頃私はJAZZなど聴いていたのだろうか・・・。わからない。JAZZを聴く、などという話を、支社長にしたのだろうか・・・。覚えていない。辞めるときに「レコード返せ」と言われ、引き出しを開けたらレコードが引っかかってひん曲がり、焦ったのを思い出した。私はこの就職に反対だった母親に「それ見たことか」と言われ、口論になった。そして次の仕事を探すべく、泣きながら職安に通った。

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退職してから4人で行った、塩原グリーンビレッジにて。仕事もせずに一人前に遊んでいるなんて!、今の私には信じがたい。パンツが見えていても色気ゼロの悲しい写真である。笹島は鈴木になり、御主人と3人の子とともに愛知に、吉田は居上になり御主人と二人の女の子とともに佐野に、篠原は藤原になり詳細は不明だが、たぶん黒磯にいる。藤原の結婚式の時、「それじゃあ次は野中の結婚式で会おうね」と言って別れた。

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5月5日・6日那須ガーデンアウトレット

          エレクトーン&ピアノデュオ

           桜岡美紀(EL)

連休中、高速がとても渋滞しているらしいので田舎道をひた走り、那須に着いた。なるほど早い時間からお客さんが歩いている。開店時間もやや早まったらしい。

今日はこどもの日ということもあって、子供中心の選曲である。エレクトーンの中にデータが組みこまれているので、構成、進行などは間違える心配もない。私は適当にメロディを弾いたり、バッキングにまわったりする。「チューリップ」「ぞうさん」なども弾く。もしかしたらこの曲を人前で弾くのは初めてかもしれない。個人的には「サザエさん」「おどるぽんぽこりん」クレヨンしんちゃんの「オラは人気者」などが好きなのだが、現在放映していないものは却下。な~んだがっかり・・・。だが「ちびまるこちゃん」から「アララの呪文」をやることになり、少し元気になった。エレクトーンの美紀、そして私はアラフォーである。もう少し若くてきれいなおねえさんが弾いてくれると、子供たち、いやどちらかというとお父さん方も楽しめるのではないかと心配したが、心配は杞憂に終わった。子供たちはたくさん集まってくれ、大きな声で歌ってくれた。イントロが始まるとすぐ、何の曲か判定してしまうところがすばらしい。喜ぶ子供たちを見れば、おとうさんたちもわれわれがアラフォーでも20才でもいとわないだろう。「侍戦隊シンケンジャー」「フレッシュプリキュア」私にとっては「なんだこりゃ・・・」的な番組である。しかしテーマ曲は非常に現代的でかっこいい。私は自分が大人だということをすっかり忘れ、むきになって演奏した。「今度はキッズスペースで演奏お願いします」と担当者は言う。大人にとってはアウェーの地である。でもまた新曲用意していくからな!待ってろよ!ちびっこたち!!!

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迷い道 ①

前回までの「Licca's House」は比較的明るい少女時代を書いたが、これ以降は笑える内容ではない。高校卒業後は暗黒の時代に突入するのだ。そしてそれは15年ほど続く。

高校時代は、今後大学などに進学する気はなかった。もう勉強はたくさんだと思っていた。愚か者である。かといっていきなり就職するのも怖いような気がしていた。父親は何も言わなかった。母親は「200万ぐらいあげるから、家を出て自分で生きていきなさい」などと言った。私は口は一人前だったが、本当にどうしていいかわからなかった。結局、卒業間近になって、母親が県南にできた音楽の専門学校を見つけてきて、私は言われるままそこに入学した。高校1年でやめてしまったピアノをまた始めたわけだ。新しい学校なので、学生は私たち一年生だけであった。40人ほどいたか・・・。どんな風にしてこの学校を見つけたのか、県内はもちろん、北海道、名古屋、広島etc・・・出身の学生がいた。ほとんどがしょうがなくてきた、というようなやる気のない者がほとんどだった。しかし講師陣は優秀だった。(と思う)私はクラシックではないいわゆるポピュラーピアノ科でピアノの先生はCMや劇伴などで活躍しているT女史だった。某有名スポーツメーカーのCMソングを流し「これ、私が作ったのよ」などと言い、田舎者の私たちは「すごいなぁ・・・」と感心していた。今でもT先生の曲が「○室アルバム」などいろいろなテレビ番組の後ろに流れているのを耳にすることがある。他にコード進行や、シンセサイザーの操作、リトミック、外国人講師による英語の授業もあった。まわりには「ホストの男とHしたら病気うつされた~」といいながら薬を飲んでいる友達もいたが、私は彼女らの影響を受けぬようひたすら「和して同せず」の姿勢を貫き、真面目に授業を受け、ピアノも練習した。しようもない学校でも、優秀であれば先生たちは目をかけてくれる。私はガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を弾いて、新聞の「地域の素敵な女性」のようなコーナーに載せてもらったり、大物作曲家HK氏の公開レッスンを受けられたりと結構楽しいこともあった。しかしいざ就職の段階になると。私はまた悩んだ。ほとんどの同級生が何の疑いもなくピアノの先生になるようなのだが、あまり稼げそうもない仕事のように思えた。ピアノの先生というのは蝶よ、花よと育てられた、家計など気にしなくても済むお嬢様がなる職業であり、なんか格好悪いなぁ~。もっとバリバリ働きたいなぁ~。と当時の私は生意気にもそのように考えていた。そして一般企業に就職することにした。高校時代にやめたピアノを再び始めたのだが、就職と同時にまた音楽から離れた。

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自宅の庭で、20歳くらいのときである。当時は長いソバージュヘアが主流で私もぼわぼわ頭であった。

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